下北半島の玄関口、野辺地を知りたい!

野辺地戦争は9月23日

弘前藩と盛岡藩は長年の確執がありますが、弘前藩が同盟を脱退した時から盛岡藩のほうでは弘前藩からの攻撃を心配していました。長年の確執があればこそなおさらのことです。弘前藩からの攻撃を心配した盛岡藩のほうでは、攻撃を恐れて津軽国境に400名の備えを7月16日の時点で配置しました。このときには盛岡藩だけではなく、八戸藩からの2小隊も含めた備えなのでかなり大掛かりな配備でした。

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降伏したはずなのに?!なぜ起きた?

ところが弘前藩が盛岡藩への動きですが、9月になっても起きませんでした。そのためどうなったのかというと、9月12日に盛岡藩と同じ同盟の盟主の仙台藩が降伏を新政府軍へ申し入れます。仙台藩の降伏申し入れが9月15日に受託されたことで、盛岡藩のほうでもこのまま継続して戦う理由そのものが亡くなってしまいました。結局盛岡藩のほうは、9月20日に新政府軍に降伏を申し入れます。降伏の申し入れが受理されたのは22日なので、この時点ですでにもう盛岡藩の戊辰戦争は終結しているはずでしたが、それでも野辺地戦争は起きてしまいました。

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勃発は9月23日

9月23日の未明に弘前藩の方から行動が開始されました。弘前藩のほうでは180名が小湊に駐屯していました。その180名が3つの隊に分かれて行動を開始します。そして180名のうち60名が、藩の境になる盛岡領側の野辺地馬門村に進入します。そして弘前藩のほうは、馬門村に入って一斉に放火を開始しました。

一斉の放火で、あっというまに馬門村の全戸に火が広がって行きます。そして民家64戸そして寺院1件に火が燃え上がりました。「なんだ?なんだ?!」とフイを疲れた形の盛岡・八戸藩の守備兵は逃走します。しかしそのあまりの猛火は弘前藩そして黒石藩側にとっては大きな弊害になりました。突然のフイをついた形で、深夜の行動にも関わらずどんどん馬門村で燃え盛っていく炎に、部隊の所在が明らかになりました。

盛岡藩の野辺地守備の根拠地になっている野辺地の軍事局への道も閉ざされてしまったために、大回りをして向かわうしかほかに道はない状態になりました。ところが、その一方で盛岡・八戸藩の軍事行動の責任者は迎撃をすることそのものに反対をします。そして責任者は6小隊と、後方へと退いていきました。

後退した動きに乗じたかたちで、弘前藩・黒石藩は軍事局にしている野辺地軍事局まであと250メートルまでの位置にまで接近しました。弘前藩・黒石藩の野辺地制圧が、もう間もなくまさに目前になったところで、盛岡藩・安宅正路が率いる七戸隊が駆けつけます。そして七戸隊からの襲撃を受けることになりました。そして七戸隊の襲撃の時間が、ちょうど日の出の時刻だったということもあって、西から攻めて逆光となったために、目がクラクラする状態になって弘前藩・黒石藩の視界を塞ぐことになり弘前藩・黒石藩は、盛岡藩・八戸藩からの一方的な射撃を受けるかたちとなってもはや壊乱状態になりました。そして隊長の小島左近と、隊司令士の谷口永吉が戦死しました。結局弘前藩は撤退したことで、野辺地戦争は集結しました。

戦死者ですが、弘前藩の戦死者では29名になっていますが、野辺地町に残っていてる墓碑には27名となっています。ほかにも、もっと多い人数が出たはずだと主張している説があります。