下北半島の玄関口、野辺地を知りたい!

野辺地戦争の後

戊辰戦争の時にも戦火にまみえることがなかった野辺地ですが、海からの砲弾に続いて弘前藩・黒石藩からの攻撃がありました。戊辰戦争に関していろいろ興味がある方は、これはぜひとも青森県野辺山にも足を運んでみてください。野辺地戦争といわれていますが、交戦そのものは1日で終わっていまるのでやはり小競り合いという程度にはなりますが、フイを疲れた盛岡藩・八戸藩からすると攻撃を受けたときにはかなり焦ったと思います。七戸隊の援軍はお見事でした。

“のべじ”でも“のへんち”でもなく“のへじ”

戦争の後はどうなった

新政府軍の参謀軍から盛岡藩は10月2日に呼び出しを受けます。もちろん9月23日のことがあったからこそ、盛岡藩は呼び出しを受けたのでしょう。盛岡藩の責任者の家老の栃内与兵衛は、自領に引き上げていたため不在っでした。そのため新政府軍へ出頭したのは、留守役の上山守古と盛岡藩の家老の新渡戸傳です。

新政府軍の方では、盛岡藩のほうで出頭してきたこのふたりに対して、どうして武力衝突したんだ?!と詰め寄ります。そして事の次第では、盛岡藩へむけて新政府軍が兵をだすぞ!!!とまで恫喝しています。

盛岡藩の方はこの状態をどのように脱したのでしょうか?

新政府から絞られる盛岡藩

盛岡藩に詰問したのは、佐賀藩士で秋田戦争の時に指揮官として大活躍をして、新政府軍に勝利をもたらした田村乾太左衛門です。これは出頭したふたりは、やばい・・とおもったでしょう。なんと言ってもこの田村の性格はかなり剛直と評判で、戦闘のときにもかなり攻撃的そして直線的な攻撃です。まるで昔の武士を連想させる田村なだけに、これは盛岡藩の命運を握ると思ったのかもしれませんが、盛岡藩の新渡戸傳は家老の立場にある自分の首で許してほしいと願いますが、田村は野辺地の小競り合いの時の戦闘の責任者では、おぬしはちがう。おぬしの首ではだめだ。と受け入れてもらえませんでした。

この野辺地の小競り合いの責任者は、栃内与兵衛でしたがこの人は盛岡の自領にこもってしまいました。これは困ってしまった盛岡藩は、どのように田村に返答すればいいのか。とかなりピンチでしたが、ありがたいことに田村が考え直したようで、結局「首級を献ずるに及ばず」という沙汰が下りました、この沙汰が下る前にも、盛岡藩の目付役の赤前治部左衛門が野辺地の戦闘での隊長を名乗って田村の元に出頭していた。野辺地の戦闘は、結局どうやって決着したのかと言うと、私闘という形での決着になったので、それ以上の処分はありませんでした。

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さらに1年後

野辺地の小競り合いから1年後になる明治2年に、弘前藩から放火をあびた馬門村に11月6日に2名の死者が来訪しました。この2名の使者は弘前藩からでした。馬門村の庄屋の方は、使者から「我々が起こした戦闘は弘前藩の本位ではなかった。佐賀藩からの圧力でやむなく侵攻した。申し訳ないのは馬門村の村民で、大変気の毒だ。そのため弘前藩の方ではこの戦闘の償いとして米30俵・材木200石・すだれ1戸あたり10枚を支給したい」と賠償を申し出がありました。

この申し出は、弘前藩から放火をあびたことで馬門村で被害にあった64戸と寺院1件に対しての賠償の提案でした。弘前藩からの使者と対応した、馬門村の庄屋の川村六次郎は、この賠償の申し出をうけいれたのでしょうか?!

庄屋の川村はこの申し出を丁重に断ります。そして「手厚い賠償が我が藩と他藩との前例になってしまうと、久保田藩との戦闘でこの戦闘とおなじように放火をした盛岡藩にとっては後に難となってしまう恐れがある」という理由を述べました。この庄屋の対応はとてもお見事と高い評判になりました。高い評判になったからそこ、これはあまりにも対応が出来すぎている。争いがあった弘前藩と盛岡藩の境の村だから、おそらく盛岡藩の方から隠密が派遣されていたんじゃないか。という噂がでるほどのいわゆる大人の対応でした。この庄屋の対応は外交能力としてはかなり秀でていますね。