下北半島の玄関口、野辺地を知りたい!

初めて受けた野辺地への砲弾

日本は外交がうまくないといわれていますが、弘前藩はすごい二重外交をしていますね。弘前藩の津軽氏と盛岡藩の南部氏は根が深い確執がありました。この確執は戦国時代からなので、かなり根深い確執です。おまけに戦国時代からの確執が江戸時代にも続いていたので野辺地戦争との時にも交戦しているのも、ながーい歴史で観れば当然のことでしょうね。

“のべじ”でも“のへんち”でもなく“のへじ”

野辺地戦争になった背景

野辺地戦争では盛岡藩・八戸藩の戦力は400名でそのうち戦闘に参加したのは半分の人数の200名です。弘前藩・黒石藩の戦力はというと180名でそのうち戦闘に参加したのは60名です。戦死者の方は盛岡藩・八戸藩の方が8名で、弘前藩・黒石藩のほうは45名とか27名とかいろいろな説があります。盛岡藩と八戸藩の勝利となったのは圧倒的な数にありそうです。

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野辺地が砲弾を受ける

野辺地戦争が起こった当時の野辺地はどうだったのかというと、かつて交通の要所として栄えていた野辺地は、盛岡藩の西回り航路の拠点として大変賑わっていました。そのため野辺地にある港には、大阪からの大型保線の千石船が毎日のように寄航していたほです。盛岡藩の方はどんなものを輸出していたのかというと、今でも野辺地観光の楽しみでもある豊富な海の幸です。海産物や大豆そして銅を輸出していました。

戦国時代でもそうでしたが、港は軍事的にみてもいとても大事な場所でもありました。その当時の盛岡藩の領地は、直接戦火を受けていないということもあって、領地も荒れてしまっていることもない土地でもありました。そして戊辰戦争の影響はというと、野辺地の受けた影響をあげるなら、鹿角からの銅の輸送が減少したこと程度でそれ以外には戊辰戦争の影響を受けていませんでした。

港は栄えて戦火もないといういわば平和な野辺地に大きな出来事が起こったのは、9月10日のことです。軍事上でも大事な場所の野辺地が、新政府軍の佐賀藩の藩士、中牟田倉之助が指揮する久保田藩の軍艦から砲撃されてしまいました。

突然いきなり不意打ちのように佐賀藩の藩士の中牟田が、盛岡領の野辺地を攻撃した理由ですが、単純に久保田藩の命令だけではないように思われています。弘前藩が7月15日に同盟を脱退してからというもの、弘前藩がぜんぜん盛岡藩を攻めようとしなかったので、おそらく弘前藩へ示威するために砲撃したのではないか?!とも思われます。

ところが、弘前藩のほうでは、突然の砲撃を受ける前の約1週間ほど前の9月2日に、久保田藩へ援軍するための申し込みをしていて、実際に申し込みをして3日後の9月5日に大館へ弘前藩の部隊を進軍させているので、その真意の方はどうなんでしょうね。

久保田藩の軍艦春陽丸から、野辺地へむかっての砲撃ですがその数は60発にもなりましたが、この砲撃での人的な被害はありませんでした。反対に野辺地の砲台から盛岡藩の砲撃で春陽丸は被弾しています。その被弾で春陽丸の帆綱は断ち切られてしまったため、春陽丸は久保田藩へ引き上げていきました。